京都・廬山寺を訪ねる

先日、京都の廬山寺を訪ねました。

ここは紫式部ゆかりの寺として有名ですが、実は明智光秀とも深い関わりがあります。

信長による比叡山焼き討ちの後、天台宗の廬山寺も焼き討ちに遭うところでしたが、正親町天皇のとりなしで難を逃れました。この時、織田家の窓口となったのが光秀。勤皇の心を持つ光秀にとって、帝の思し召しをどうしても実現させたい一心だったのではないでしょうか。

その縁を示すかのように、廬山寺には光秀の念持仏(戦場に携えた小さな仏像)が遺されています(非公開)。また境内には明智家の家紋でもある桔梗の花が咲き誇り、歴史の因縁を感じずにはおられません。

では、光秀はなぜこれまで肌身離さず戦場に持参していた念持仏を、この廬山寺に託したのでしょうか。信仰のよりどころを手放すことは、武将にとって命を預けるほどの覚悟が必要です。考えてみれば、光秀の出自である土岐氏は天台宗を深く信仰しており、比叡山との縁は家系的にも切っても切れないものでした。その土岐氏の末裔として、光秀は正親町天皇のとりなしを受けた廬山寺に、自らの信仰と運命を託したのかもしれません。

あるいは、戦乱のただなかで次第に自らの行く末を感じ取り、信頼できる寺に仏を残そうとしたのか――。そう考えると、念持仏が廬山寺に残された意味は、単なる縁起以上に重いもののように思えてきます。

このように想像を広げていくと、一つの史実の背後に幾重もの物語が見えてきます。講談に取り組む身として、この想像の広がりこそが物語を形づくる原動力となるのだと改めて感じました。

いま、私は明智光秀の講談を執筆しており、そのためにもどうしても訪れておきたい場所でした。

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